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東京地方裁判所 平成9年(ヨ)21114号 決定 1997年10月31日

債権者

荻巣芳和

右代理人弁護士

岩崎健一

債務者

インフォミックス株式会社

右代表者代表取締役

村上憲郎

右代理人弁護士

田中誠一

田中修司

主文

一  債務者は債権者に対し、一二〇万円及び平成九年一一月一日から平成一〇年八月三一日まで、毎月末日限り月額六〇万円を仮に支払え。

二  債権者のその余の主位的申立て及び予備的申立てをいずれも却下する。

三  申立費用は債務者の負担とする。

理由

第一  申立て

(主位的)

一  債権者が債務者に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

二  債務者は債権者に対し、平成九年五月から本案事件の第一審判決の言渡しがあるまで、毎月二五日限り月額六〇万円を仮に支払え

(予備的)

債権者が厚生年金保険及び健康保険の取扱上、労働契約に基づいて債務者に使用される者であることを仮に定める。

第二  事案の概要

本件は、スカウトによって債務者への入社(中途採用)が内定した債権者が、債務者の採用内定取消の無効を主張して、債務者に対して地位保全及び賃金仮払いを求めた事案であり、争点は採用内定取消の有効性である。

一  事実経過

疎明資料(甲一ないし一四、二六の1、乙二)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実が疎明される。

1  当事者

債務者は、昭和四〇年に設立された、米国インフォミックスソフトウェア社(以下「米国イ社」という。)製のコンピュータ・ソフトウェアやデータ・ベースの販売、テクニカルサポート、ユーザー教育、各種日本語製品の開発等を業とする資本金一二億四〇〇〇万円、従業員数約一三〇名(平成八年一月時点)の株式会社であり、実質的には米国イ社の一〇〇パーセント子会社と同様の立場にある。

債権者は、昭和六二年三月、名古屋工業大学大学院(生産システム工学専攻)を修了後、同年四月、日本アイ・ビー・エム株式会社(以下「IBM」という。)に入社し、後記のとおり平成九年四月三〇日に同社を退職するまで、第一ソリューション・サービス保険第二開発部に勤務していた者である。

2  債務者への採用内定に至る経緯

(一) 平成八年一二月一三日ころ、IBMの元同僚であった債務者の高木アドバンスドテクノロジー統括部長(以下「高木」という。)が債権者に対し、債務者でマネージャーを探しているので、是非とも話を聞いてほしいとの話をしてきた。そこで、債権者は、同月一八日から平成九年二月四日まで計四回にわたり、高木のほか、宮脇取締役営業本部長(以下「宮脇取締役」という。)ら役員、人事部長らと面接したが、その際、債務者側から「会社はより一層の成長をするために人材を広く募集している。ついては荻巣さんのIBMでの一〇年のキャリアを必要としているため、是非入社してほしい。」旨強く勧誘されたことから、入社に強く心が動かされた。

(二) 債権者は、同月一一日、債務者から採用条件提示書及び入社承諾書の送付を受けたが、右提示書には、左記条件で債権者を採用することを決定したことをお知らせする旨が記載されていた。

(1) 所属 カスタマーサービス本部エンタープライズサービスエンタープライズコンサルティンググループ

(2) 職能資格等級 五八等級マネージャー

(3) 給与条件 基本給六〇万円

(略)

(4) 入社希望日 平成九年四月一日

債権者は、役員らと面接したうえでの採用であることやマネージャーとしてキャリア・アップを図ることができることなどから、債務者に入社することを決意した。そして、債権者は、ローンの借り換えやIBMでの仕事の引き継ぎの都合上、債務者の了解を得て入社予定日を同年四月二一日とすることとし、同年二月一二日、①採用条件提示書記載の事項を確認し、同年四月二一日に入社することを承諾し、会社の事前の許可なく入社日を変更することはないこと、②入社承諾書提出後は、正当な理由がない場合は入社を拒否しない旨が記載された入社承諾書を債務者に送付した。これに対し、債務者は、同年二月一八日、債権者に対し、入社承諾書を受領した旨の通知書及び「入社手続きのご案内」と題する書面を送付した(以下、これにより債権者と債務者との間に生じた法律関係を「本件採用内定」という。)。

(三) 債権者は、同年三月一二日、IBMの上司に対し、一旦同年四月二〇日退職予定の退職届を提出したが、IBMの事務手続の都合上、同年四月三〇日退職予定とする退職届を同年三月三一日付けで提出することの指示がなされた。そこで、債権者は、債務者の了解を得て入社予定日を同月二一日から同年五月一日に変更してもらい、同年三月三一日、IBMに対して同年四月三〇日退職予定の退職届を提出した。翌四月一日、債権者は、IBMから同日付けで職位を係長格とする職能格辞令を受けて強く慰留されたが、退職の決意は変わらなかった。その後、債権者は、高木と会って同人から仕事のマニュアルをもらい、勝倉人事課員(以下「勝倉」という。)と事務的な打ち合わせを行った。

3  本件採用内定の取消に至る経緯

(一) 債権者は、平成九年四月一四日午前一〇時ころ、勝倉から「村上社長に一七日に会ってほしい。」旨の電話を受けた。しかし、債権者は、家族サービス及び転職前のリフレッシュのため、同月一六日から同月二〇日までグアムへ海外旅行に行く予定であったことから、同月二一日にしてほしい旨返答した。翌一五日午前一〇時ころ、債権者は、再度勝倉から「五月からの入社について重要な話があります。」との電話を受けた。そこで、債権者は、同日午後五時ころ、債務者を訪れたところ、管理部門の責任者である木村哲(以下「木村」という。)が債権者に対し、インフォミックスグループの平成九年第一四半期(一月一日から三月三一日まで)の業績が予想を大幅に下回ったため、債務者を含む全てのグループ会社を対象に経費削減と事業計画の見直しが進行しており、債務者も組織、事業形態の修正作業を検討しており、その結果、債権者の配属を予定していたカスタマーサービス本部エンタープライズコンサルティンググループ自体が存続しなくなること等を説明したうえ、「当初の採用条件で荻巣さんを採用する予定が、当社の都合でできなくなるかもしれません。たとえ五月に入社していただいても、当初の想定業務を行ってもらえなくなることになっては荻巣さんに申し訳ないし、荻巣さんの経歴上も好ましくないと考えたため、事前にお知らせすることにしました。ついては、もし荻巣さんの方が入社を辞退したいということであれば、それ相応の償いをしたいと考えています。しかし、入社を辞退するかどうかは荻巣さんが決めてもらえば良いことであって、入社してもらうことは差し支えありません。ただ、現段階では具体的な話はできませんので、二一日にもう一度ご足労願いたい。」旨を述べた。その後、債権者は、本件について債権者代理人である岩崎弁護士に相談した。

(二) 債権者は、同月二一日午後二時ころ、債務者において木村と会った。木村は債権者に対し、インフォミックスグループの状況、とくに債務者では既に大阪営業所を閉鎖し、東京でも組織、人員、経費の見直しが進められ、債権者以外に三名の者が入社辞退の勧めを受けている旨の説明をしたうえで、①入社、②基本給の三か月分の補償、③債務者が提携先を通じて提供する就職斡旋サービスの利用のいずれかを選択することができる旨の条件を提示した。しかし、債権者は、債務者の現状が理解できなかったことから、債務者代表者及び宮脇取締役から事情説明を受けることになった。そして、債務者代表者は債権者に対し、同月一日に米国イ社から一〇〇億円ほどの赤字が平成九年第一四半期で出そうとの連絡があり、本社の取締役によるインフォミックスグループ全体の予算と経費の見直しが入ったこと、今まで先行投資モードで日本での事業拡大を図っていたが、大幅な軌道修正が避けられず、債権者が勤務する予定であった部門自体の廃止が決定しており、当初の想定業務を担当してもらえる前提が成り立たないこと等を説明した。そして、債務者代表者は債権者に対し、①基本給の三か月分の補償、②入社して試用期間である三か月経過後に辞める、③入社するが、マネージャーではなく、マネージャー待遇でシステムエンジニア(いわゆるSE)として働くとの三つの案を提示し、「仕事内容が変わるかもしれないが、荻巣さんには是非働いてもらいたい。」と述べた。これに対し、債権者は返事を保留した。

(三) 債権者は、債務者代表者の真意を確かめるため、同月二二日午後六時ころ、木村に電話をかけたところ、同人は「説明不足で申し訳なかった。会社としては基本的に入っていただきたい。」と返答した。

(四) 債権者は、同月二三日、債務者に対し、「話が違う。ちゃんとマネージャーとして雇ってくれ。三か月だけ再就職のために籍を置いておくなんて条件はとても飲めない。」と抗議し、入社辞退の場合には基本給の二四か月分の補償を要求し、右要求が受け入れられない場合には弁護士を立てること、入社するのであれば試用期間を放棄することを申し入れた。

(五) 債権者は、同月二四日午後五時ころ、債務者において木村と会った。木村は債権者に対し、「会社に入ってもらうのは構わないけれども、もし入社を辞退してもらう場合には、基本給の六か月分を支払う。」と述べて、本件の解決金として三六〇万円を支払い、これによって債権者は債務者に対する一切の請求権を放棄すること、雇用契約その他の一切の関係が合意解約されて債権者と債務者間にいかなる債権債務関係がないこと、和解金額や債務者の秘密情報の開示漏洩をしないことなどが記載された住所、署名欄白紙の確認書を交付した。債権者は、本件について弁護士にお願いするのがよいと考え、別れ際のエレベーターで木村に対し、返事は内容証明でさせていただく旨返答した。

(六) 債権者は、同月二五日、債務者の人事課に入社手続について問い合わせたところ、渡邉課員は、同年五月一日はゴールデン・ウィーク期間中で債務者が休みであることから入社日は同月六日になること、同日に年金や雇用保険の手続を行うので書類を持参することを回答した。

(七) 債権者は、同月六日午前九時三〇分ころ、債務者の人事課を訪れたところ、木村から「岩崎弁護士が一時に来るので同席してほしい。」旨の申し入れがあった。そのため、債権者は、持参した入社手続に関する書類を処理することなく一旦債務者を立ち去った。債権者は、同日午後一時ころ、岩崎弁護士同席のうえ木村と会い、右席上、木村は債権者らに対し、従前のいきさつを説明し、債権者は、IBMも辞めたので一生懸命全力を尽くして債務者で働きたい旨申し入れた。しかし、木村は「連休中に社内の情勢が突然変わり、今まで働いてもらっても構わないといっていたが、荻巣さんには働いてもらうことができなくなった。」と述べて本件採用内定を取り消す旨の意思表示をした(以下「本件内定取消」という。)。岩崎弁護士は木村に対し、米国イ社及び債務者代表者の最終的な決定であることを確認したうえで、内定取消した旨の文書の交付を要求した。しかし、木村は、顧問弁護士に連絡してほしい旨を述べて、債務者代理人である田中誠一弁護士(以下「田中弁護士」という。)の名刺のコピーを手渡した。

4  本件内定取消後の事情

(一) 平成九年五月六日午後三時三〇分ころ、田中弁護士から岩崎弁護士宛てに電話があった。岩崎弁護士は、本件内定取消の撤回の意思の有無を確認したところ、田中弁護士は「現在本社の内部においても大幅なリストラを計画中であり、会社として内定取消を撤回する気はないですね。訴訟になれば受けて立ちますが、そういうことになれば荻巣さんの経歴に傷がつきますよ。もし、荻巣さんが会社を辞めてもいいということであれば、私がいくつか就職先を探してみても構いませんが、荻巣さんが会社をあくまでも辞めないというのであれば、就職先を探しても馬鹿々しいですからね。現時点ではこれ以上具体的な話をしても荻巣さんに対して失礼ですから。」、「先生の方で内容証明を出してくれれば、こちらとしてもそれに対応して返事を出せる。」旨返答した。なお、債権者は、同日午後一〇時ころ、高木からの電話で「どうして会社に来なかったのか。人事の渡邉さんも事務処理ができなくて困っている。上司の石光さんも日本の会社は内定取消をすることはなく、荻巣さんのための席も電話も用意していると部下に言っていたようだ。」と聞かされた。

(二) 岩崎弁護士は、同月七日、田中弁護士宛てに内定取消を撤回しない場合には法的手段に訴えることなどを記載した内容証明郵便を送付し、同月九日、債務者宛にも同様の内容証明郵便を送付した。これに対し、田中弁護士は、同月一二日、岩崎弁護士宛てに同年四月二三日及び翌二四日における債権者の言動の真意をはかりかねているので調査、確認して回答してほしいことなどを記載した内容証明郵便を送付したが、岩崎弁護士の出した内容証明郵便に対する回答は何もなかった。

二  債務者の主張

1  採用内定の法的性格については諸説があるところ、本件採用内定を解約留保権付労働契約であると解するならば、債権者と債務者との間に労働契約が成立していることになるから、債務者は債権者に対して配置転換命令権あるいは業務転換命令権を有していることになる。そして、債務者の行使する留保解約権は、留保解約権の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ、社会通念上相当と是認することができるものであれば許される。本件では、整理解雇も許される状況の下で、債務者は債権者に対し、本件採用内定の取消を回避すべく入社辞退を促すとともに、入社を希望するならば給与はそのままで職種をマネージャーではなくSEとなるとして、やむを得ず職種変更命令を発した。ところが、債権者は、SEとして入社するのであれば試用期間を放棄してほしい旨回答して職種の変更を拒絶したばかりか、却って債務者と殊更に事を構え、円満な雇用関係の形成を困難ならしめる挙に出た。そこで、債務者は、留保解約権の行使(本件内定取消)に及んだのであって、客観的に合理的と認められ、社会通念上相当と是認することができるものであることは明らかである。

2  本件内定取消はいわゆる整理解雇ではないが、整理解雇の要件、すなわち、人員削減の必要性、解雇回避努力、被解雇者選定の合理性、手続の妥当性という四要件と対比しても、客観的に合理的と認められ、社会通念上相当と是認することができるものである。

3  よって、本件内定取消は有効である。

三  債権者の主張

1  本件採用内定の法的性格は、就労始期付解約留保権付労働契約であると解すべきである。そして、スカウトによる採用内定の取消(留保解約権の行使)は、通常の新卒者に対する解約権の行使と比べると、会社側には新卒者に対して抱く不安がほとんどないので解約権行使の必要性は格段に低いのに対し、スカウトされる側には、留保解約権の行使によって被る損害が新卒者に比べて甚大であり、その意味で大きな制約を受ける。

2  スカウトによる採用内定は、いかなる職場でどのような地位に基づいて仕事をするのかが転職を決意する際の決定的要素であるから、会社側の都合で職種や地位を一方的に変更することは許されない。本件では、債権者は、平成九年四月三〇日付けでIBMを退職して同年五月一日付けで債務者に入社することになっていたところ、債務者は、入社日のわずか二週間前に突然債権者に対して職種の変更を申し入れ、これに応じないのであれば、三か月分の給与相当分の補償を受けて入社を辞退するか、三か月間だけ会社に在籍してその間に再就職先を探すようにと一方的に迫った。これに対し、債権者は「話が違う。ちゃんとマネージャーとして雇ってくれ。三か月だけ再就職のために籍を置いておくなんて条件はとてものめない。」と抗議したにすぎず、この発言を捉えて債権者が職種変更命令を拒否したということはできない。

3  本件内定取消は、債務者の経営悪化を理由とするものであるから、いわゆる整理解雇として採用内定取消が許されるかどうかが問題とされるべきである。ところで、企業が経営悪化を理由に採用内定取消をする場合、もともと企業の経営、人事計画に基づいて一旦は積極的に人材募集、勧誘を行っているのであるから、それをわずか数か月で採用ができなくなるほど経営が悪化するとは通常考えられないことである。仮に、経営状態が悪化したとしても、それを予見できなかった責任は企業にある。したがって、余程の特殊な事情のない限り、整理解雇としての採用内定取消の合理性や相当性を認めることはできない。労働省も、不況を理由とする採用内定取消を行わないよう行政指導している(職業安定法五四条、同法施行規則三五条)。本件では、整理解雇としての採用内定取消の合理性、相当性を肯定するに足りる特殊な事情は存在しないから、本件内定取消は無効である。

第三  当裁判所の判断

一  被保全権利について

1  まず、本件採用内定の法的性格について判断する。

前記事実経過によれば、債務者は債権者に対し、所属、職能資格等級、給与条件、入社希望日等を記載した採用条件提示書を送付し、債権者が債務者の了解を得て入社日を当初の平成九年四月一日から同月二〇日に変更したうえで入社承諾書を送付したこと、入社承諾書には「会社の事前の許可なくして、入社日を変更することはありません。」、「入社承諾書提出後は、正当な理由がない場合は、入社を拒否しません。」と記載されていること、債務者は債権者に対し、入社承諾書を受諾した旨伝えるとともに、「入社手続きのご案内」と題する書面を送付し、これ以外に労働契約締結のための手続等は予定しないこと、その後、債権者の退職時期の関係で債務者の了解を得て入社日が同年五月一日と変更され、さらに同日がゴールデン・ウィーク期間中で債務者が休みであったことから、入社日が同月六日に変更されたこと、以上の事実が疎明される。これらの事実によれば、本件採用内定は、就労開始の始期の定めのある解約留保権付労働契約であると解するのが相当である。

2  次に、本件内定取消の有効性について判断する。

(一)  始期付解約留保権付労働契約における留保解約権の行使(採用内定取消)は、解約権留保の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ、社会通念上相当として是認することができるものに限られると解するのが相当である(最高裁昭和五四年七月二〇日第二小法廷判決・民集三三巻五号五八二頁参照。)。そして、採用内定者は、現実には就労していないものの、当該労働契約に拘束され、他に就職することができない地位に置かれているのであるから、企業が経営の悪化等を理由に留保解約権の行使(採用内定取消)をする場合には、いわゆる整理解雇の有効性の判断に関する①人員削減の必要性、②人員削減の手段として整理解雇することの必要性、③被解雇者選定の合理性、④手続の妥当性という四要素を総合考慮のうえ、解約留保権の趣旨、目的に照らして客観的に合理的と認められ、社会通念上相当と是認することができるかどうかを判断すべきである。

以下、本件に即して検討する。

(二) 債務者は、債権者が給与はそのままでマネージャーからSEへ職種を変更する命令に従わず、その後も債権者が殊更に事を構える態度だったことなどから、円満な雇用関係を形成することができず、やむを得ず本件内定取消に及んだ旨主張するので、この点について判断する。

確かに、本件採用内定を始期付解約留保権付労働契約と解する以上、債権者の就労開始前であっても、債務者は、人事権に基づき債権者の職種を変更する権限を有するものである。しかし、前記事実経過によれば、債務者が債権者に対し、入社をするのであれば給与はそのままでマネージャーではなくSEとして働いてもらう旨述べたのは、債務者が経営状態の悪化を理由にいわゆるリストラをせざるを得なくなり、これに伴い、採用条件提示書にも記載されていた債権者の配属予定部署が廃止され、マネージャーとして採用することができなくなった状況下で、①基本給の三か月分の補償による入社辞退、②再就職を図るため試用期間(三か月)債務者に在籍し、期間満了後に退職、③マネージャーではなくSEとして働くという三つの条件を提示して事態の円満解決を図ろうとしたものと推認されるのである。そうだとすれば、債務者の債権者に対する右発言は、事態の円満解決のための条件の一つを単に提示したにすぎず、債務者が債権者の職種を確定的に変更する意思でもって右発言をしたとみることはできない。したがって、債務者の主張は、職務変更命令の存在という前提を欠くから、職務変更命令違反等を理由とする本件内定取消は無効というほかない。

なお、仮に、債務者の右発言が債権者に対する職種変更命令であると認められるとしても、前記事実経過によれば、債権者は、債務者がマネージャーを探しているとの勧誘を受けて役員らと面接し、マネージャーとしてキャリア・アップを図ることができることから債務者への入社を決意し、債務者から所属のほか職能資格等級として五八等級マネージャーと記載された採用条件提示書を受領し、これに対して入社承諾書を送付したなど、マネージャーとして入社することに大いに期待していたことが容易に推認されるのである。そして、債権者は、平成九年三月三一日に同年四月三〇日退職予定の退職届をIBMに提出し、もはや後戻りできなくなっていたのであるから、債務者が入社の約二週間前になって債権者に対し、債務者の経営悪化等を説明して入社の辞退勧告や職種の変更を述べたことは、債権者にとってまさに寝耳に水であり、これに対して債権者が「話が違う。ちゃんとマネージャーとして雇ってくれ。」等と述べてSEとして入社するのなら試用期間を放棄してほしい旨申し入れたのは、債権者が抱いていたマネージャーとして入社できるという期待を裏切られたことへの率直な心境を言い表しているにすぎない。確かに、債務者がマネージャーからSEに職種変更命令を発したことで債権者の給与が下がるわけではないから、経済的な不利益は生じないし、また、債権者と債務者との間で職種をマネージャーに限定する旨の合意があったとは認められないから、債務者が職種変更命令を発したことは、それ自体経営上やむを得ない選択であったということができる。しかしながら、前記採用内定に至る経緯や債権者が抱いていた期待、入社の辞退勧告などがなされた時期が入社日のわずか二週間前であって、しかも債権者は既にIBMに対して退職届を提出して、もはや後戻りできない状況にあったこと、債権者が同月二四日、木村に対し、内容証明郵便を出すなどの言動を行ったのは、本件採用内定の取消を含めた自らの法的地位を守るためのものであると推認することができるから、債務者の職種変更命令に対する債権者の一連の言動、申し入れを捉えて本件内定取消をすることは、債権者に著しく過酷な結果を強いるものであり、解約留保権の趣旨、目的に照らしても、客観的に合理的なものとはいえず、社会通念上相当と是認することはできないというべきである。

したがって、いずれにせよ、職務変更命令違反等を理由とする債務者の本件内定取消は無効というべきである。

(三) 次に、債務者は、本件内定取消は整理解雇ではないが、その要件に照らして有効である旨主張するので、この点について判断する。

(1) 人員削減の必要性

前記事実経過に加え、疎明資料(乙二、三の1、2、四ないし八)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実が疎明される。

債務者は、米国イ社の資金援助(平成八年には総額八億二〇〇〇万円、平成九年も二月までに総額四億六〇〇〇万円)を受けて、これまでは先行投資による事業展開を図ってきたが、平成八年一月一日から同年一二月三一日までの当期未処理損失として約七億七五〇〇万円、当期損失として約三億四〇〇〇万円を計上し、負債が約五七億三三〇〇万円であるのに対して資産が実質的には約四一億一三〇〇万円しかなく、約一六億二〇〇〇万円の債務超過状態であり、また、平成九年第一四半期における当期損失は約五億一〇〇〇万円を計上し、負債は約五四億円であるのに対し、資産は約二二億〇六〇〇万円しかなく、約三一億九四〇〇万円の債務超過に陥っていた。そして、米国イ社は、平成九年第一四半期において、売上高が前年比三四パーセント減の一億三三七〇万米国ドル(一米国ドルを一二〇円で換算すると一六〇億四四〇〇万円)であるのに対し、一億四〇一〇万米国ドル(同一六八億一二〇〇万円)もの巨額の損失を出した。そのため、米国イ社はもちろん、債務者を含むインフォミックスグループ全体の経営を見直しせざるを得なくなり、債務者は米国イ社から資金援助を受けることができなくなってしまった。そこで、債務者は、右のような大幅な債務超過による倒産必至の状態を回避し、かつ、日本におけるインフォミックスの活動拠点を存続させるため、いわゆるリストラを敢行すべく従業員数を約一三〇名から六四名にまで削減し、組織も営業部門やマーケティング部門を廃止し、カスタマーサービス部門は保守サービスの提供という観点から維持することになったものの、債権者が配属される予定だったエンタープライズ・コンサルティンググループは保守サービスとは関係のない直販拡大のためのサービス部門であったことから廃止されることになった。

以上の事実によれば、債務者は、大幅な経費削減、事業の縮小、廃止に伴って生じる余剰人員を削減する必要性が極めて高かったということができる。

(2) 人員削減の手段として整理解雇(採用内定取消)をすることの必要性

前記事実経過に加え、疎明資料(乙二、六、八)及び審尋の全趣旨によれば、次の事実が疎明される。

債務者は、リストラを敢行すべく西日本営業所の従業員に対象にした早期退職者の募集や同営業所の閉鎖、東京本社の従業員を対象にした依願退職や同本杜の業務スペースの一部閉鎖、さらには、債権者を除く三名の採用内定者に対して入社の辞退勧告及びその際の補償を話し合い、三名全員が入社を辞退した。債務者は債権者に対し、債務者の経営悪化等を説明して入社の辞退勧告とそれに伴う補償や職種の変更の打診を行ったが、いずれも実現には至らなかった。

以上の事実によれば、債務者は、従業員に対して希望退職を募ったり依願退職を進める一方、債権者を含む採用内定者に対しても入社の辞退勧告を行って相応の補償の申し出をしたり、債権者には職種変更の打診もするなどして、本件採用内定の取消回避に向けて相当の努力を行っていたというべきである。

(3) 被解雇者選定の合理性

本件では、債権者と債務者は、採用内定関係にあり、未だ就労していなかったのであるから、前記事実経過のとおり、債権者が既にIBMに対して退職届を提出し、もはや後戻りできない状態にあったことを考慮しても、債務者が既に就労している従業員を整理解雇するのではなく、採用内定者である債権者を選定して本件内定取消に及んだとしても、格別不合理なことではない。

(4) 手続の妥当性

前記事実経過によれば、債務者は、本件内定取消をするにあたり、岩崎弁護士同席の下、従前のいきさつ等を説明して「連休中に社内の情勢が突然代わり、今まで働いてもらっても構わないといっていたが、荻巣さんには働いてもらうことができなくなった。」と述べているが、ここにいう社内の情勢の突然の変化の原因が、債権者が平成九年四月二三日及び翌二四日に発した一連の言動等によるものであることは、乙第二号証によって明らかである。しかしながら、右(二)で説示したとおり、債権者の右言動等は、本件採用内定に至る経緯等に照らし、債権者が債務者に裏切られたという思いでなされたものであって、債務者が債権者の右言動を捉えて入社の意思が感じられず、円満の雇用関係の形成が期待できないと判断したのは、余りにも早計にすぎるといわざるを得ない。

また、前記事実経過のとおり、債権者は、債務者の勧誘を受けて本件採用内定を受け、一〇年間務めたIBMを退職して入社準備を整え、入社日の到来を心待ちにしていたところ、入社日の二週間前になって突然入社の辞退勧告や職種変更の申し入れがなされたのであって、これらの事実関係に照らすならば、債務者が自らスカウトしておきながら経営悪化を理由に採用内定を取り消すことは信義則に反するというほかなく、本件採用内定を取り消す場合には、債権者の納得が得られるよう十分な説明を行う信義則上の義務があるというべきである。しかるに、債務者は、債権者の本件内定取消の文書の交付要求に対して、顧問弁護士に連絡してほしい旨を述べ、その後、田中弁護士は岩崎弁護士に対し、債権者から内容証明郵便を出してもらえば、それに対応して回答する旨述べながら、岩崎弁護士作成の内容証明郵便に対して、債権者の真意について調査、確認の上での回答を求める内容証明郵便を出したが、岩崎弁護士が出した内容証明郵便に対する回答にはなっていなかったというのであって、必ずしも債権者の納得を得られるような十分な説明をしたとはいえず、債務者の対応は、誠実性に欠けていたといわざるを得ない。

(5) 右(1)ないし(4)で検討してきたところを総合考慮すれば、債務者は、経営悪化による人員削減の必要性が高く、そのために従業員に対して希望退職等を募る一方、債権者を含む採用内定者に対しては入社の辞退勧告とそれに伴う相応の補償を申し入れ、債権者には入社を前提に職種変更の打診をしたなど、債権者に対して本件採用内定の取消回避のために相当の努力を尽くしていることが認められ、その意味において、本件内定取消は客観的に合理的な理由があるということができる。しかしながら、債務者がとった本件内定取消前後の対応には誠実性に欠けるところがあり、債権者の本件採用内定に至る経緯や本件内定取消によって債権者が著しい不利益を被っていることを考慮すれば、本件内定取消は社会通念に照らし相当と是認することはできないというべきである。

したがって、本件内定取消は無効というべきである。

3  以上のとおり、本件内定取消は無効であるから、債権者は債務者に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることになる。

二  保全の必要性について

地位保全及び賃金仮払いの仮処分は、仮の地位を定める仮処分であるから、裁判所は、「債権者に生じる著しい損害又は急迫の危険を避けるためこれを必要とするとき」に限り仮処分命令を発することができ(民事保全法二三条二項)、債権者は、右の必要性について主張及び疎明する責任がある。

これを本件についてみるに、疎明資料(甲二六の1、2)及び審尋の全趣旨によれば、債権者は、肩書地において妻、長男の三人暮らしであり、IBMを退職するまで同社から支払われる賃金でもって生計を立てていたことが疎明され、IBMを退職し、債務者から本件内定取消がなされた現在、生計の維持に著しい困窮を来たしており、保全の必要性があると認められる。

そこで、まず、賃金仮払額について検討するに、疎明資料(甲一八ないし二四、二六の1)及び審尋の全趣旨によれば、債権者がIBM退職前である平成九年一月から同年四月までに支払を受けた賃金は、通勤手当を除き平均して月額四二万九九三六円であるのに対し、同期間の平均支出額は住宅ローンや親への仕送金(月額一〇万円)、公租公課を含めて六一万五一九七円であることが疎明される。これらの事情を考慮すれば、債務者に命ずべき賃金仮払額は、月額六〇万円全額を認めるのが相当である。

次に、賃金仮払いの期間について検討するに、近く訴え提起が予想される本案訴訟の進行予想や債権者の転職等将来の事情変更の可能性、債務者が被る損害の程度等を考慮すれば、債務者に命ずべき賃金仮払いの期間は、本件最終審尋期日が行われた月である平成九年九月一日から平成一〇年八月三一日までの一年間と認めるのが相当であるが、過去の賃金仮払い及び一年間を超えた将来の賃金仮払いについては、その必要性を認めることができない。

次に、地位保全の必要性について検討するに、債権者は、健康保険被保険者の資格を失うと実費で医療費等を負担せざるを得なくなること、厚生年金についても被保険者の資格を継続して掛金を支払わないと将来の年金給付に多大な支障を来たすことを理由に、地位保全の必要性は高い旨主張する。しかしながら、地位保全まで認めないと債権者が著しい損害を被るとまではいえないから失当であり、他に地位の保全まで認める必要性はない。

なお、債権者は、賃金支払日は毎月二五日である旨主張するが、これを認めるに足りる疎明資料はないから、賃金後払いの原則に従い、賃金支払日は毎月末日であると認める。

三  以上によれば、債権者の本件申立ては主文第一項の限度で理由があるから、債権者に担保を立てさせないで認容し、その余は理由がないから却下して、主文のとおり決定する。

(裁判官島岡大雄)

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